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台風15号の日

 強風と時折思い出したかのように打ち付けてくる横殴りの雨の中、あらゆる死のシナリオを思い描きながら、僕はすべての行程を歩ききった。初めはそんなつもりではなかった。職場から自宅まで一体どれほどの距離があるのかワクワクしていたくらいだ。
 職場の最寄駅の電光掲示板で先の見えない「運転見合わせ」の文字列を確認した。他の利用者が駅員に何かを聞いていたが、おそらく判然としない返答を得ていたことだろう。訊きたいことは皆同じだ。運転再開の見通しは立っているのか?その質問は「台風はいつ通り過ぎるのか?」と言っているようなものだ。気象庁のホームページにアクセスした方が正確な情報が得られたはずだ。それだってみんな承知している。わかっていても尚、わかりきっている情報にすがりたい気分なのだ。エナジードリンクを胃に流し込むと、意を決して歩き出した。駅前にはタクシーが列を成して、駅の利用客を物色している風だった。僕は迷わずタクシーを利用すべきだったかもしれない。昨日から喉が痛かったし、咳も出始めていたのだ。夜勤明けで長距離歩くとなると体への負担は大きい。おそらく世の中の誰もがタクシーを選択するだろう。僕はまともな人間なので徒歩を選んだ。

 iPhoneの地図アプリによると自宅付近までは約15km、徒歩でおよそ3時間ほどかかる計算になっていた。風が強いとは言え、衰えを見せていたし、未明の激しい雨もどこかへ行っていた。行けると思った。歩いて数分で総重量約80kgの体を持って行かれそうになるような強い風が吹き、狼狽えたが、それ以降風は収まって行った。戦略を立てていた。できるだけ線路沿いの道を歩いて、電車が通るようだったら、近くの駅から乗車するという算段だ。完璧だ。
 強風のことを友人に話すと「風では死なない、瓦や木片、鉄板が飛んでくるかもしれない。頭や首をガードしながら歩くんだ」というようなメッセージを送って来た。果たしてそうだろうか。風でも死ぬ気がした。風に舞い上げられて、空に落ちて死ぬのだ。ゲームの中でストライダー飛龍は空に落ちて死んでいた。空に落ちるという意味自体おかしなものだが、一旦空に舞い上がり、地面に落ちて死ぬことだってあるかもしれない。
 その時は追い風だった。後頭部をガードしなければならない。追い風だから走るのも手だった。後頭部への物の直撃をかわすためには、その飛来物と同じスピードで走ればいい話だ。足は遅いが追い風に乗れば可能だろう。これがまず想起された死のシナリオの始まりだ。

 途中のコンビニで唐揚げとローヤルゼリーとスポーツ飲料を買いこんだ。コンビニ前ですぐにローヤルゼリーを補給し、唐揚げを食べた。自分が浮浪者のようにも思えたし、RPGの主人公のようにも思えた。僕は旅人だ。友人がレストランで親子丼を食べていたらゴキブリが入っていたというメッセージを送って来た。彼は店の責任者に対して憤慨しているようだった。衛生的に不潔極まりない話だし、責任者の精神も健全とは言えない話だった。世の中には健全でない精神が溢れ返っている。

 1時間ほど歩いた時にはもう風もほとんどなくなり、雨も止んでいた。間違いなく運転が再開されるだろうと思った。JR九州のHPにアクセスし、運行情報を確認した。10時50分現在の情報はなぜか「運転見合わせ」だった。何かの間違いだろう。現在地から最も近い駅を通りかかった時にホームを覗いてみると、誰もいなかった。間違いではなかった。仕方なく、次の駅に向かった。おそらく次の駅に着く頃には線路上を電車が通るだろう。

 僕は大いに間違っていた。台風の目の中にいたのだ。鉄道会社も容易に運転再開とは行かないようだった。風は強まりつつあった。急がないと、もしかしたらダメかもしれないとさえ思った。車で何度も通った道だが、歩くとこれほどまでに遠いのかと思いはじめていた。まだここか・・・
 至る所に折れた枝が転がっていた。駅の駐輪場に止められた自転車は軒並み倒れていた。自転車を起こそうとする人間など一人も見当たらなかった。台風の日に外に出る人間などいないのだ。通り道の明らかに場違いなところに鍵の外れた自転車が倒れていた。僕は盗もうかと思った。移動速度を上げたかったのだ。何をしてもいいような気がした。生きるためだ。
 自転車に乗った(盗った)瞬間にパトカーが追いかけてくる。僕は狼狽えてバランスを崩し、身長の6割ほどの高さがある欄干を難なく超え、増水した川の濁流に飲み込まれる。歩いて前に進む以外のすべての行動や雑念が死のシナリオを描き上げる。打ち捨てられた、あるいは風に飛ばされてきた自転車を無視して、足を前に出した。
 やっと国境に出た。足が痛かった。iPhoneの電池が切れてしまっていた。どこかで倒れてしまっても、助けを呼ぶことはできない。にも拘わらず、僕の歩いていた場所は車道からは死角になった人通りの極めて少ない歩道だった。ツツジ科か何かの低木がどこまでも続いており、車道と歩道を隔てていた。低木とはいえ、走っている車からは歩行者を確認することは困難に思えた。どこまでも続く歩道でもし力尽きたら、白骨化するまで気付いてもらえないかもしれなかった。ただの帰宅なのに、なぜ遭難しなければならないのだろう。
 足場は悪かった。強風で折られた枝が舗道上を埋め尽くしていた。左側の斜面を覆う竹林から、力尽きた竹が何本も舗道倒れかかり、動線を阻んでいた。傘で振り払ったり、潜ったり、飛び越えたりした。前に進むしかない。もし10km先が行き止まりで引き返さなければならなくても足を止めることはできない。
 竹林を抜けると開けた場所に出た。雨が上から下でなく、左から右へと降っていた。見るからに風が強まっていたし、雨も激しくなっていた。傘は役に立たない。風に飛ばされて、車道に投げ出され、通行中のトラックに轢かれる想像をし、身震いしながら車道と距離を取った。反対側は川になっており、底の見えない濁流があった。見ただけで吸い込まれそうだ。見通しがよくなったので、車道からも歩行者の僕に気付くはずだ。「一体彼は何をしているのだ?」と誰もが思ったことだろう。確かに歩道なのだが、普段誰も歩かないような場所を歩いているのだ。警察も通りかかった。もしかしたら声を掛けてくれるかもしれない。声をかけられたら「いやあ困ってましてね、家まで乗せてもらえますか」となりふり構わず話しかける覚悟でいた。警察官、彼らは行ってしまった。ずぶ濡れで歩くスキンヘッドの男をあっさりと見過ごして行った。

 どこまで続く泥濘ぞ、などという歌が聴こえてくるような気がした。2時間は歩いていた。右側の車道からは高い塀で隔てられた場所だった。ここはどこだろう?左側には住宅が建ち並んでいる。もし力尽きたら、誰かに発見されるだろうか。それにしても人の気配の全く感じられぬ住宅だ。もしかすると誰も発見してくれないかもしれない。
 雷のような音が聞こえてきた。落雷で命を落とすこともあるかもしれない。歩道上はあらゆる負の可能性で満ちていた。途中で雷鳴でなく、高架を通る車が立てる音だと気付いて少し安心したのだが。

 もう戻れないような見知らぬ場所を1時間歩き続け、もう戻れないような不安感で満たされていた時に、やっと見覚えのある道に出た。足の裏が酷く痛かった。両足の裏の親指の付け根の皮膚が剥離しているに違いないと思ったが、大したことはなかった。さらに1時間ほど歩いてやっと家に着いた。その間に警察車両が2、3台通り過ぎて行った。彼らはやはり僕が徹夜をして15kmの行程を歩き続け、疲弊しきっていることには気づいてくれなかった。
 朝9時半過ぎに職場を出て、最寄駅で運転見合わせを確認し、帰宅を開始したのが午前10時だった。午後2時になってやっと辿り着いた。実に4時間の行程だった。結局帰宅するまでの間に電車や各種交通機関は運転再開はされなかった。そればかりか21時になっても(もう雨も風もほとんど止んでる)、運転見合わせの線がある。JRも今日の運行はもう思い切って諦めてしまったのだろう。私鉄は全線再開していたが・・・

 帰宅してまず最初に風呂を沸かした。4時間歩いている間、何よりも風呂を楽しみに歩いたのだった。

「ああ、極楽じゃ!」浴槽に浸かった瞬間に思わず言葉が漏れた。

 iPhoneの電源を入れると妻から5度も着信があり、SNSを介して「死んでる?」などとメッセージが届いていた。僕が「歩いて帰る、電車止まってる、ふざけとる」等のメッセージを送った後3時間ほど消息を絶っていたので、彼女なりに心配してくれたようだった。

 職場から徒歩で帰宅しようなどと二度と思わない。たとえ晴れていても。
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