新しい空気

 できる限り規則正しい生活を心がけた。朝は洗濯と掃除、昼前か昼過ぎになると食材の買い出しに出かけた。眠気を感じると好きな時間に横になった。夕食を作って、仕事帰りの妻を迎えた。完全に主夫な生活を送っていた。ほぼ毎日、このようなリズムで過ごしていた。

 有給休暇も今日で終わりだ。一ヶ月の長いようで短かった休暇が終わり、明日からまた仕事が始まる。新しい環境、新しい仕事、新しい人々。僕は勇んで現場に飛び込んでいくだろう。決して「あなたはここに何をしにいらしたのですか」と聞かれることはない。ちゃんと契約書を書いて提出をしたのだ。勤務当日になって「採用したなどという話は聞いていない」と言われることはないはずだ。今は不安が大きいが、きっと仕事に慣れるだろう。朝礼で、首から上、顔だけでなく、紙の薄くなった頭頂部までをも真っ赤にして、僕は自己紹介をするだろう。今から緊張してきた。頑張る!



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逃げられる限界の所まで行くんや

 「つらい、つらいんや」と僕の言葉でない言葉で、もう仕事にはうんざりだ、頭がおかしくなると独り言を溢していると、仕事から帰って来た妻が「辛くない」と僕の弱音を突っ跳ねるように言った。「私は自分で言うのもあれだけど、働き者だと思う」と妻が言った。「僕もや、僕も働き者や」とまた自分の言葉でない言葉で僕は言った。「全然」とまた妻は僕の言葉を否定した。僕はお金にならないところで働き者なのだ、家事をちゃんとやっていると主張した。「当たり前やろ。過剰にアピールすることでもない」と言われた。夜勤明けで帰宅し、寒空の下で、洗濯物を干していると、ふと気がふれそうになる。冬の冷たい太陽の光に反射して白く強く光っているであろう頭皮は誰が見ても禿げているだろう。光が当たっても当たらなくても禿げていることに変わりはないが。何でヘトヘトで帰って来て、まだ働かなければならないんだ、まだ禿げさせるのか、もう飛び降りよう。会社はこの僕に上等なカツラと落ちてきた視力を補うインテリ風のメガネと、賢く見えるジャケットとシャツとズボンと靴を支給してくれるくらいの配慮をすべきだ。色々なことが頭の中でぐるぐると回っていた。頭囲60cmの頭蓋が更に膨張していく。

 宝くじは外れた。昨年末の目論見では、今頃10億円を手に入れており、職場に退職届を提出しているはずだった。当てが外れた。自分のいいようにならないものはすべて詐欺のような気がした。

 14時頃にベッドに入った。僕は寝るんや、眠れる限界のところまで行くんや、と僕でない言葉で思って寝入る。18時前に猫が文句を言いに来た。限界まで眠る僕の夢を打ち砕いた。猫は僕の睡眠を許してくれない。猫は18時になると決まって猫缶を食べる。そういう習慣なのだ。18時に必ず猫缶を食べたいから、僕が眠っているのはあり得ないことだと猫は考えている。猫は自分を中心として、世界が回っていると思っている。僕も自分を中心として世界が回っていると考え、それを疑わない時期もあったが、今では別の中心に巻き込まれながら回るクズみたいな人間だと自覚している。どうしようもない。うわー、と棒読みのような悲鳴を上げた。「お腹空いた?」と猫に訊くと「ぱっ」と言う。「食べる?」と訊くとまた「ぱっ」と返事する。「ご飯」と言うと、ドコドコと走り回る。何かの映画で観たジャン・クロード・ヴァン・ダムのように必死になってベッドから体を起こす。ジャン・クロード・ヴァン・ダムのようにカッコよくなくて、禿げたおっさんが汚く起き上がっているのだろうと自分で思い、自分で傷つく。最近、頭だけブルース・ウィリスに似てる、と妻に言われる。ふらつく体の均衡をやっとのことで保って、壁伝いに歩いた。猫缶を器に移し、レンジで10秒温める。猫はテーブル代わりに使っている爪とぎの前に座り、僕を見上げて待っている。皿を目の前に差し出すと、18時に僕を起こした割には無感動な様子で、ゆっくりと猫缶の匂いを嗅いで、ペロペロと舐め始めた。

 夜、パソコンでピアノの演奏を聴いていたら、もうこれ以上体に力が入らなくなった。

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晩秋の匂い

 新規公開株の抽選は落選していた。僕は運が悪かったのだ。でも、僕の誘いに乗って応募していた妻が当選し、初値売りで数万円の利益を上げた。僕は指を咥えて見ていた。「ねえ、ねえ、IPO教えてあげたの僕だよね」と誰かが言うようなセリフを言ってみたが、妻はどこかへ行ってしまった。まあ、山分けするほどの大金を手に入れた訳ではないので、僕はそれ以上何も言わなかった。新規公開株式の募集はまだいくつもある。当選はしにくいのだが、挑戦し続けたいと思っている(応募するだけだろ)。次は是非とも僕が当選したい。

 秋も深まり、虫の声も静まった。ところが、無言のうちに家の中に侵入した虫がいた。カメムシだ。その時、僕は夜勤明けで寝ていた。妻が「カメムシがおる」と僕に言いに来た。嫌な予感がした。カメムシがいるという場所に駆けつけると時すでに遅しだった。フリーになった猫がカメムシをおもちゃにしていたのだ。動くものがあれば、じゃれずにはいられない。弱ったカメムシは禁断の力を解き放った。僕は猫をカメムシから引き離した。猫の顔周辺がカメムシの放屁に冒されていた。猫の奴隷から解放されたカメムシは弱り弱って、虫の息となり、妻に放り出された。僕は「くっっっせぇぇぇぇえええーーーー!!!」と叫びながら猫を抱きかかえた。妻がペット用の体拭きシートで猫の顔や足を拭いた。「もう風呂に入れよう」と提案したが、体拭きシートの匂いでなんとなくカメムシ臭が中和されたようだったので、入浴は取りやめた。猫はあちこちを徘徊した。どこに行っても臭いらしかった。どこに行ってみても、自分自身からは逃れられない。どこまでもニオイはつきまとった。前足の匂いを嗅いでは振り払う動作を繰り返し、しきりに舐めていた。いつもは大人しく寝ているはずだった。寝る間も惜しんで毛繕いをしていた。

 猫はトイレの後、突然全力で走り出すことがある。一体どうしたというのだろう。トイレの後、特にうんこをした時などは注意しなければならない。臭ってきた。僕がトイレの方を見ると、トイレではない床にうんこが落ちていた。「うわー」と悲鳴を上げ、掃除に取り掛かる。妻が笑っている。笑っている妻に「座ってないで消毒してよ」と言う。猫のダッシュは勢いをつけて肛門からうんこを引き離すためのものなのだろうか。とんでもない排泄方法だ。もうこれで二度目のことだった。年に一度のペースで何らかの間違いが起こっている。

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平等な抽選

 スーパーの入り口で女性が滑って転びそうになり、「ファッ!?」と小さな叫び声を上げた。足元を見るとネギが落ちていた。バナナでなく、ネギだ。雨で濡れて滑りやすくなっていた訳でなく、ネギだ。転倒したら骨折したかもしれないから、笑い事ではないのだが、僕はそのネギがおかしくて、下を向きニヤニヤしながら歩いていた。不注意で前を歩いていた妻の靴の踵を踏んづけてしまった。妻に怒られた。

 マクドナルドでテリヤキバーガーを買い食いした。シェイクも買って飲んだ。最近、糖尿病まっしぐらな食生活を送っている。ほぼ毎日コカ・コーラを1リットルは飲んでおり、夕食後は必ずと言っていいほどお菓子を食べている。やめられない。お腹の皮下脂肪が日に日に分厚くなっているのを実感できる。太ったら、また痩せたらいいと思っている。だから、気にせずに食べてしまう。維持しようという気持ちはない。太ったら痩せたらいいし、痩せたら太るまで好きなものを食べていいと思っている。

 今日は新規公開株の抽選が行われ、結果がわかる日だ。結果がわかるまでまだ少し時間がある。当たればいいと思っている。是非当たって欲しい。当たっちまえ。もし当たったら、後日報告しようと思う。当たらなかったと分かった瞬間に僕は不貞寝してしまうだろう。友人は僕とは別の証券会社で申し込んでおり、落選が決まったという。一体どういう人間が当たるのだろうか。資産家で取引実績がない限り、当選しないのかもしれない。でも、未来の資産家たる僕は取引実績などない。誰だって最初は実績なんてないのだ。資本がすべての世界とはいえ、IPOの抽選は完全に平等であってほしい。むしろ初心者に優しく、初心者枠というのも設けてほしいくらいだ。そうでないと、貧乏人には夢も希望もないではないか。とはいえ、実績を積んだ人からしたら「甘い」と言わざるを得ない言い分だろう。どんなこともコツコツやっていくしかない(コツコツやってどうにかなるものでもない気がするけど)。

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貧乏症

 一歩後ろで歩いていた妻がこう言うのだ。

「上から下まで(色が)剥がれとるね」

 僕のリュックサック、Tシャツは酷く色褪せしていた。紺色のそれらは新品の頃に比べると大分くたびれてしまっていて、色が薄くなって白っぽく靄のかかった調子だ。Tシャツの襟は伸びてきており、風呂に入った直後でも忽ち臭くなってしまいそうなほど、不潔に見えてしまう。短パンは皺が寄っており、やはり不潔に見える。暑くて裸足にサンダル姿だから、尚更不潔さを助長しているかのようだ。しかし、この暑さは見た目を気にしている場合ではない。

「色褪せてしまってるから、見すぼらしいんやろ」僕は言った。

「上から下まで、リュックもTシャツも頭もハゲとる」と帰りの道すがら、妻は他人が聞いてそうな場所で余計なことまで言った後に「リュック新しいの買うちゃろか」と言う。

「何でそんなこと(頭髪のことを)言うの?買わんでいい」と口をすぼめて不機嫌に断りながらも、自分の見た目が気になって「かわいそうだと思ったね?新しいの買ったほうがいいかな」と聞いてみる。

「明日博多に行って買うちゃる」と妻は言う。妻としては隣で歩く夫にはもう少しマシな格好をしてもらいたいのだろう。気持ちはわかるけれど、吝嗇家と化した僕はリュックサックの機能を失うまで使いたいし、Tシャツは着ているのに全裸に見えてしまうレベルまで着続けたいと思っているくらいだ。昨今の個人的な財政状態を鑑みて、リュックサック1つを購入する程度のことであれば今後の生活への影響は少ないと思われるが、それを買ってしまったらまるで将来もないかのように損をするような気持ちになってしまう。これはある種の病気、貧乏症なのだろう。

 そもそも洋服やバッグのことなど考えもしなかったことだ。僕はスマホを格安SIMに変えようと思っていて、そのこと以外にはあまり関心がなくなっていた。格安SIMで更なる節約に努めようと思っていた。どうやら、貧乏症をこじらせてしまったらしく、節約する目的を見失っていたのかもしれない。お金を増やそうとすればするほど、僕は全裸に近づいてしまっていたのだ。

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こんにちは、たびびとです。
ようこそ、ぼくのブログへ。

介護職員のバイトをしています。
時間がいっぱいあるので、ブログ始めてみました!

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